私達のルーツ | 印刷用ページ |
★御仏のお導きに依って明らかになった私達のルーツ 原町市押釜の山田家は真宗門徒で、加賀・越中から相馬に移住して来たことは間違いないが、加賀前田藩の国禁を侵して逃散者(走り人)として人別帳からも抹消去れ、相馬に大いなる希望を抱き、苦心惨憺して遙々移って来た人達です。山田家には越中五個山から、背負ってきたと言い伝いられる仏像があり、この仏像に関する巻もの『木伝譲状』に依り明和元年(西暦1764年)五ヶ山嶋村の庄兵衛が譲り受けたと記されている。この木仏と譲状により、山田家初代庄七は嶋村の庄平衛の子孫であることは明らかである。(押釜山田家所蔵文書) |
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★嶋村 庄兵衛等の寺替え事件(五箇山平村 村史)明和2年(西暦1765年) 五ヶ山では檀那寺の慣習があり、門徒は檀那寺の変更=寺替えについて集団行動をとるようになった。城端善徳寺文書に依ると、利賀西勝寺は金沢専光寺下寺であり、嶋村(現平村大島)の専光寺門徒支配を専光寺から申し付けられていた。ところが、西勝寺が心得違いをし、門徒に対し寺役の勤めを怠ったので、嶋村の門徒武右衛門等45人が連判して専光寺へ直参門徒にしてほしいと願い出た。すでに明和二年にも嶋村庄兵衛等八人が西勝寺に不満をもち専光寺直参となっている。 (大島池田庄兵所蔵文書) |
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称名寺(旧島村道場) | 池田庄兵衛寄贈の刻印 |
★山田庄七(押釜山田家初代)五ヶ山嶋村から相馬に移住 天保3年の大飢餓により、荒廃した農村を加賀越中からの移民によって、復興せんとする相馬藩の方針に応じ、遙々相馬領に移住した。庄七55歳で長男市之助次男仁右衛門長女キワの3人を連れて、天保6年に移って来た。次男の仁右衛門は文政2年に五ヶ山酒の井村あらやの、から移住した仁兵衛の(藤原家の初代)長女イフと結婚し天保8年3月旧石神村大谷に居を移した。(現在の石谷家初代)(藤原家所蔵文書) |
五箇山へリンク | 移住歴史年表 | ![]() |